校章
校歌

七生中学校校歌

        作詞 巽 聖歌

作曲 平岡照章

 

 

一 秀麗に 富士を 見放けて

  ここにたつ われらの校舎

  その昔 衣さらしし

  多摩川も近く新し

   中学 中学 われらの学び舎

 

二 ふく風も さやに緑に

  すがすがし われらの校舎

  清潔に心保ちて

  朝に夕に つとめいそしむ

   中学 中学 われらの学び舎

 

三 横山の多摩のふもとに

  かがやかし われらの校舎

  人みなの愛をあつめて

  明日の日の 夢ぞはばたく

   中学 中学 われらの学び舎

校章・校歌の由来
       
出 水 操(美術科教諭 昭和28年~昭和42年在職)

 校章と校歌は学校のシンボルである。私が赴任した昭和二十八年時点では校章はあったが、校歌はなかった。校章は、昭和二十二年に在学した生徒たちから、募集した。弓とペンを組み合わせたもので、弓は力強さや体力を象徴し、ペンは文筆を意味するから知性や感性ひいては文化的センスや人間性につながるもので、健康で体力に恵まれた豊かな人間像をめざした調和のとれた人間の意味がこめられている。二期生の清水泉二さんの提出作品といわれている。
 校旗はこのマークを大型の紫地の布に白く抜いて染め、木の棒に巻いて使った。創立十周年の記念に新しい校旗を作ろうということになって、PTA会長の浜田惣蔵さんが奔走され、高幡出身の久野さんという方が台東区で旗などイベント用品の卸商を営んでおられて、制作を引き受けて下さいました。校旗のデザインは美術担当の私に任されたので、マークは金糸の縫い取りで文字も刺繍で入れてもらいました。色を濃い目の紫にしたのは、落着いて重昧があって永保ちし上品でノーブルな雰囲気が出るように考えました。寒い早春の一日、浅草橋近くのお店に浜田会長と飯島一吉校長と私の三人で行き、塩瀬の絹の深い色上りの金糸のマークがくっきりと浮んだ校旗をみた時、まぶしいはどの豪華さを感じ、三人で喜び合い、学校やPTAのみんなの喜ぶ顔を思いだしながら足どりも軽く帰ってきました。
 製作費も格安にして頂き、助かりました。校歌については国語科の尾形広吉先生を中心に制定の係が決められ、私もその一員になりました。募集も巾広い範囲から集めようと校内をはじめ一般募集をして二十編近く集まりました。選者は豊田の競馬場(現在の旭ヶ丘地区)近くに住んで居られた童謡作家の巽聖歌さんで私も親しくさして頂いていたので快く引き受けて下さいました。(先生は童謡”たきび“等の詩があり、奥様は女流画家の野村千春さんです)審査の結果、適当な作品がなく、いずれも帯に短かし、たすきに長しとの選評で校歌としては今一歩踏みこんだ内容の作品が欲しかったといわれました。
 そこで、再度相談しまして、作詩を先生にお願いしました。先生は何度か学校の近くに来て想を練り、現在の歌ができました。先づ富士山が見えてその下に浅川の清流が近くを流れる環境はよその学校にはないというので、気に入られた様子でした。国語の尾形先生と二人で歌詞をいただきに行き、大変喜んで渡して下さいました。自分でも、"うまくできた”とおっしゃる程でした。”富士を見放けて”は古いことばの使い方だが遠くにある富士山の感じを出すために、特に使ったことも説明して下さいました。”衣さらしし”は清らかな水を感じさせます。実際に上流の八王子は織物の産地でつい最近まで浅川で染めた布を流れにさらす情景が見られました。三番の”人みなの愛をあつめて”ということばは素晴らしい文句で、教育の理想的なあり方を示唆しているようです。子どもを中心に親も、まわりのすべての人々が協力しあい、見守りながら育てていくということです。それでこそ社会の中で通用する人間が育つようにとの希いがこめられているようです。作曲については巽先生の紹介で平岡照章先生にお願いすることになり、新宿にスタジオがありましたので、尾形先生と出かけました。
 当時、童謡の人気歌手として有名だった小鳩くるみさんが育った所です。”校歌の歌詞が美しいので、さわやかに流れるようなメロディにしました。
歌いやすいと思います?とおっしゃいました。譜面の印刷原稿は私が幾晩も時間をかけて版下をかき印刷してもらいました。

 昭和三十二年十二月、創立十周年の式典の日は寒い日でしたが、警視庁の吹奏楽団の協力をえて、朝礼台前の特設ステージで高らかな校歌の演奏を聞き、感動をわかち合いました。十年目にして、立派な校旗と校歌が揃い皆んなの喜びも強かったのです。この後、南多摩郡内の何校かで聖歌先生の作詞で校歌を作ったそうです。学校のシンボルとして校旗、校歌がいつまでも皆んなに親しまれ愛され続けられる事を祈ってやみません。

       

「創立50周年記念誌」寄稿 平成9年11月8日発